はじめたから思った
いつも横にいる人こそ大切に思おう!
という思いで一日過ごしてみた。
もちろんその相手は嫁である。
やったことは下記
意識して相手を見てみた
できるかぎり優しくしてみた
意識して話しかけてみた
相手の良いところを探してみた
言葉に気をつけて話した
等々
結果。。。
キツイはー!
なにかを我慢して接しているようで精神衛生上よくないです。
なんだろ。
仲は悪くない。周りからは仲良いね、て言われるくらいなんだけど
最近嫁がすぐに怒るのです。
嫁の顔色ばかり見て接している自分に気づくと死にたくなる。
愚痴ってもうた。
愚痴る男キライ!反省。
ただ気がついたことがある!
全ては有限であるってこと。
食べ放題とかって美味しく感じなかったりするじゃないですか。それはそのとき食べ物が無限にあるよと思っているから。
でもそれを有限、つまり量が決まっていると思って食べるともう少し美味しく漢感じるはずなんですよね。
人付き合いも同じなんじゃないかなて思う。
いつまでもそのままでそこにいる訳じゃないんですよね。限りがあるんです。
物事には全て限りがある。
このブログをはじめてあたり前が見えるようになってきた気がする。
これいいわ!
明日も書いてみよ!
近すぎた。日本一の山
先週土曜、突然キャンプがしたくなり、昼になると家族を引き連れ田貫湖のキャンプ場に向かった。
改めてどこかでキャンプのことは書きたいと思うが、それはさておき。
そこで偶然遭遇目にした「ダイヤモンド富士」に私はなぜか涙した。
あの涙は何だったのだろう。
世界文化遺産富士山
静岡県に産まれ落ちた者として、当然のように富士山に誇りを持って生きてきた。
一時、長崎県に移り住んだ際も地元静岡に帰省しては富士山を眺め、離れることにより、より富士山の美しさを心に刻んでいった。
静岡人はこうして富士山に見守られながら、皆育っているのだ。。。と思う。
しかし意外にも、富士山に登ったことのない静岡人が多いのご存知だろうか。
2、3年前に見たある企業の調査結果では県民の約80%が富士山に登ったことがないと答えていた。
実際、私のまわりでも頂上まで行ったことがある人はまばらで2割にも満たない。
年に二度ほどしか見れるチャンスのない「ダイヤモンド富士」を見たことがある人など、それ以上に聞いたことがないので更に少ないのであろう。
なぜだ静岡人。
以前、大阪から来た友人が、「通天閣なんか近すぎて登る気もせんわい」、などと言っていたのを思い出す。同じことなのだろうか。もったいない。
とか言う私自身も車で行ける富士山五合目までは、幼い頃連れて行ってもらったことはあるが、そこまでである。
富士山を好き好きと口で言っていてもその程度。
話を戻そう。
「ダイヤモンド富士」の現れる数分の間に溢れ出た涙の正体それは。
いつでも見れると思っていた富士山。
そのとき見た見慣れない美しき山に目を奪われたことにあったのだ。
近くにあるものが見えているようで見えていなかった。
自分の学ばないアホさ加減を突然突きつけられたのだ。
先日、名古屋の叔父さんが亡くなった。
最近まで元気で、たまに家に遊びに行くとよくメロンを出してくれた。
自分のこともよく気にかけてくれていた。
訃報は本当に急だった。
もっと会って沢山話しをしておけばよかった。
お酒が好きな人だったので一緒に飲みたかった。
叔父さんの顔を見ながら、色々な想いが頭をよぎった。
いつでも会えるから今年は行かなくていいか。また来年行こうかな。と考え、長く顔を出していなかった。
後悔がとまらなかった。
いつでも見れる。
いつでも会える。
いつでも酒をかわせる。
いつでも手をつなげる。
いつでも笑顔にしてあけられる。
いつでも優しくしてあげられる。
いつでも一番素敵。
あまりに近すぎて、「いつでも」が当たり前になってしまっていることがある。
富士山が気づかせてくれた。
もっと近くを見てみよう。
足元も見てみよう。
家族、友人、恋人、知人。
自分の1番近くにいるはずの、1番大好きな人なはずのあの人が、実は1番視界の外側にいる。
そんなことがあるのかもしれない。
1番大切にすべき人は誰なのか。
それはどんな人達なのか。
今一度自分に問いかけろ。
富士山にそう教えられた。
さすが富士山 日本一!